豪州屋Roo子のオーストラリア雑感集
アンザックデーに思うこと

今年はイースターが遅かったため、イースターとアンザックデーの祝日が2週連続で ロングウイークエンドとなりました。小春日和というか、穏やかで日中暖かく (22‐23度)気候の安定した毎日でしたが、アンザックデー当日朝5時半からの夜明け の礼拝(Dawn Service)はさすがに冷え込んだと思います。
アンザックデーのANZACとは、Australia and New Zealand Army Corpsの略で、第一 次大戦で豪州・ニュージーランド軍がトルコのガリポリで激戦を戦った日を記念し て、退役軍人の功績を讃える日です。第一次大戦だけでなく、その後、第二次大戦、 朝鮮戦争、ベトナム戦争、そして最近はイラク戦争に至るまで、オーストラリアを守 るために戦地に赴いた人々に敬意を払う日となっています。この日は、ガリポリの海 岸でも、キャンベラ、シドニー、メルボルン、ブリスベンなどで、夜明けの礼拝が行 われます。参加するのは、退役軍人や軍関係者だけかと思っていましたが、意外に多 くの若者が参加していました。イラク戦争が完全終結したとはいえない中東で、トル コへ出かけるオーストラリア人はテロの標的となる可能性あり、との警報が出る中、 現地へ出向いた12000人は、ほとんどがバックパッカーだったとか。そして、ここメ ルボルンの戦争慰霊塔前広場に集った人々も、新聞によれば、祖父や曽祖父が戦争経 験者だから、という人に混じって、「自分達と同じような年齢で、同胞を守るために 従軍した人たちを思って」という高校生、大学生もいたようです。
夜明けの礼拝に続き、退役軍人のパレードが行われ、テレビ中継されます。第2次大 戦の対戦国であった日本人としては、これらの儀式をテレビで見ているのでさえ辛い ものがあります。パレードでは次々と、部隊名と戦地を記した旗を掲げて、たくさん の勲章をぶらさげた老退役軍人とその家族らが行進するのを映し出しますが、fought with Japaneseの連呼です。第2次大戦から生還した人々の多くは、日本軍の捕虜とな り、過酷な労働・虐待・栄養失調等の修羅場をくぐりぬけてきた人々で、その憎悪た るやすさまじいものがあるようです。日本軍の捕虜生存率は独伊と比べて極端に低 い、と豪州の歴史の教科書にも載っています。その当事者である方々に当時の日本を 理解してくれ、といっても無理かもしれません。それでも、日本人が特に残虐であっ たということではなく、戦争というものの罪、という視点にたってもらえたら、と願 わずにはいられません。
ガリポリ上陸作戦に参加した生き残り兵士の、最後の一人が昨年亡くなったのです が、第一次大戦に従軍した33万人のなかでまだ存命の方が6人いるそうです。そのう ちの一人は、長年アンザックデーのセレモニーに出なかったのだけれど、今年は参列 し、「オーストラリアがイラク戦争に兵士を送ったことは残念だった。戦争はいつの 世でも醜い」と語ったと新聞で読みました。この日が、オーストラリア人としての愛 国心を鼓舞する日であっても、過去の対戦国への憎しみを深める日ではなく、戦争の 悲惨さを語り継ぐ日であってほしいと祈りたいです。
それにしても、こうやって、過去の戦争が語り継がれていく他国と違い、日本では、 12月8日や8月6日が何の日かさえ知らない人が増えているということを憂えます。戦 争経験者が子や孫に語り継ぐ機会も少なく、戦争を知らない世代は、他国の、例えば キャンベラにある戦争記念博物館にでも行かなければ、自国の軍隊の戦争がどんなも のであったかを知ることもない。実は私も、オーストラリアに住むまで、オーストラ リア軍と日本軍の交戦状況も、日本軍の捕虜となった兵士が舐めた辛酸も、戦後、そ の報復のように行われた戦犯裁判で、日本を遠く離れた南の島々で、多くの日本人が 処刑されたり服役したことを知りませんでした。戦後の日本統治はアメリカ主導では あったけれど、オーストラリア軍も戦後処理にあたっていたし、天皇の戦争責任を最 も追及したのはオーストラリアだったのです。
当時の状況から考えると、よくぞここまで日豪関係が好転したものだと思います。日 本人捕虜が集団脱走を企て多くの死亡者を出したカウラ事件の舞台、NSW州カウラの ように、事件を礎に地道な日豪交流が続けられている町もある。ビターで重い内容な がら、海外に出て日本の歴史を「体感」した者が、次の世代に伝えていかなければ、 と思います。
